Volunteacher:大学生講師のブログ

教育系ボランティアで教師をしている大学生のブログです。教育に関する話題や、趣味の話題がメインです。

他人を追い込む子供、それを隠す大人

 プルガです。


 またしてもいじめに関して非常に残念な出来事がありましたね。


 神戸市内の中学3年生の女子生徒が自殺をした事件で、いじめがあったとうかがわせるような聞き取り調査のメモ書きがあったにも関わらず、神戸市の教育委員会の首席指導主事の指示によってそれが隠蔽されたという出来事です。しかもその主席指導主事の言い分としては、「メモが明らかになれば、事務処理が面倒になる」というものであり、教育者以前に人としてどうなのかという批判が相次いでいます。


 いじめ問題に対する教育委員会の不祥事は今回に限った話ではありません。他にも大津市中2いじめ事件教育委員会の隠蔽体質が露呈したことで有名ですね。正直見ていて愉快な話ではなく、非常に凄惨ないじめであったにもかかわらず、まったく被害者側が救われていない事件なので、とても腹立たしく思いました。


 以前の記事で、道徳教育でいじめをとめることはできないという私見を述べさせていただきましたが、今回はよりいじめにフォーカスしてお話ししたいと思います。


・「いじめ」というフレーズそのものの問題
 

 先日大学の授業の方で「“いじめ”をテーマに道徳の授業の指導案を書け」というレポート課題を頂きました。できる限り有意義な授業を作りたいので、工夫するつもりですが、現在考えている工夫は、「“いじめ”をテーマにしているのに一回も“いじめ”という単語が出てこない授業にしたい」ということです。


ところで、人を殴ればもちろん犯罪というのは当然ですよね。金銭を脅し取れば恐喝という罪に問われます。ちなみによく「空気読めよ」とか言って無理やり踊らせたり、歌わせたりするのってありますよね。あれも「強要罪」と言って懲役3年の刑罰が下されます。


こうした具体的な行為が併合して行われているのがいじめです。簡単に言えば逮捕される可能性があるのです(と言っても少年法の存在から即座に刑務所に収監されるということはないのですが…。)。にもかかわらず、いじめって平然と行われますよね。私は恐らくいじめというフレーズ自体に責任感を感じさせない要素があるのではないかと思います。

 

 「いじめ」というフレーズについてどのような印象がありますか?これだけだとイメージがしにくいので、いじめの中にある「暴力」、「悪口」などと比較してみます。私個人としては、どうしても「いじめ」という総称よりも、具体的な行為である「暴力」、「悪口」などの方が強く印象に残ります。

 

 いじめ、と一言で言っても種類は様々ですよね。暴力の有無、金銭の有無、悪口の有無、どのような形態であっても「被害者がそうだと感じれば」いじめになります(これは政府機関の調査等で定義されています)。しかし逆に言えば、いじめという単語そのものの類型が広すぎて、具体的行為が見えにくくなっているのではないかと思われます。いじめという言葉では、まず根本的に単語そのものが抽象的すぎる故に、周囲の人間が認識しない、あるいは認識しても大きく問題視しないのです。


 一方、同じく教育現場で問題となっている“体罰”という言葉は具体的な行為を連想しやすく、印象に残りやすいですね。もちろん、暴力、誹謗中傷などは行為そのものを指すので目を引きやすいです。


 いじめではなく具体的な行為を言葉にする方が、事の重大性を認識した判断をしやすいのではないかと思われます。

 

・「いじめ」は必ず起こる。重要なのはその後にどうなるか


 いじめを阻止することはできるでしょうか?思うに、それは犯罪が無くならないのと同じで、いくらいじめが犯罪行為だと説明しても一定数はいじめの加害者になるのだと思います。


 特に日本の教育では、学校のクラスという単位で「みんな仲良く」やらせる活動、例えば運動会や合唱の発表会などが多いため、クラス単位での仲間外れなどをはじめとしたいじめが構造的に起こりやすく、学校で阻止するのには限度があるでしょう。いじめは必ず起こる、これは皆さんで前提として共有しておくべきだと思います。


 それでは学校はいじめが起こったことにして何の責任を負わなくてもいいのかと言えば、それは違います。いじめによって被害生徒が出ているというのは事実ですから、子供の安全を守る立場として、まずは十分な調査をしたうえで保護者に状況を詳細に説明する必要があります。


 また、いじめに加担した生徒に対しては厳しい処罰が必要です。大津のいじめに対して教育委員会が「いじめた側にも人権があるという」姿勢でいたようですが、特に理由なく人権を奪われている生徒がいる中で、それは不公平です。公平を訴える学校機関として、問題行動を起こした生徒に対して処罰が下るのは当然であるという認識を持つべきです。


 これらの段階では、学則では限度があるのでやはり法執行機関として、警察との連携が欠かせないでしょう。学校で警察沙汰になって学校のネームバリューを下げたくないからいじめを隠蔽する、では話になりません。


 学校でなくともどこでもいじめは起こります。大事なのはいじめが起こった場所学校なのだから、「学校を管理する立場」としてどのように処理するかが問題になるのです。被害生徒が自殺した場合に、遺族にいじめの隠蔽をするのは教育者として以前に人として論外です。


   学校も子供の安全を管理するという義務を果たすことが出来なかったのですから、きちんと被害者に対して謝罪と状況説明に加え、今後はどう対処するかの提案など誠意を見せなければなりません。


おわりに


 いじめという言葉はフワッ、としているのでなかなかイメージしにくいですが、言葉の語感以上に深刻な状況に追い込まれているケースが多いです。いじめの被害にあっている生徒、さらにはその保護者に対してケアをしなければ生徒に一生の傷を負わせることにもつながります。そうなれば学校でいじめが起こった事実以上に学校のネームバリューが下がるでしょう。

 

 自分の責任は隠蔽するのに、子供に対して「悪いことをしたら謝りなさい」などもっともらしいことを言ってるのは、まったくもって納得いきません。子供も日ごろ教師から偉そうに言われているものですから「お前が言うな」という気持ちになって大人に対する不信感を強めるでしょう。


 今回の事件では、教育者としての自覚が足りない面が強く印象に残りましたね。今後改善されることはあるのでしょうか…。