Volunteacher:大学生講師のブログ

教育系ボランティアで教師をしている大学生のブログです。教育に関する話題や、趣味の話題がメインです。

道徳教育って本当に必要なのか。

 プルガです。


 道徳が2020年に教科になるという話をご存知でしょうか?時折メディアなどで取り上げられますが、大々的に取り上げているわけではないので、もしかしたらご存知ないという方もいるかもしれません。


 この「道徳」という教科、大人世代の間でなぜか一定数の割合の人が絶対視してきました。「子供が非行に走るのは道徳教育が足りないからだ」、「道徳教育をすれば非行は減るんだ」という考えの方もいると思います。


 この度教科化されるという話も、「いじめとそれに伴う自殺」が原因だとしています。つまるところ、「いじめや自殺が起きるのは道徳教育が足りないからだ」ということです。


 道徳教育が本当に必要かどうかの話の前に一つのニュースに注目しましょう。


・宮川選手の謝罪は道徳教育の成果か


 日本大学の宮川選手の謝罪動画がアップされましたね。どうやらネット上では賛否が少し分かれているようですが、私自身はあの対応は同じ大学生の立場として立派なように思います。彼自身が行ったプレイについては、悪質以外の何物でもないですが、事実も自己の範囲で比較的具体的に説明していることに加え、自分のプレイについての責任は持っているように見えますし、何よりも実名・顔出しの社会的なリスクがある中でそれでもやるというのは勇気・誠意があるように感じます。
 

 謝罪会見の動画をちゃんと見るのは初めてでしたが、結構大変なものですね。カメラフラッシュを断続的に焚かれながら、自分の内面を終始振り返させられるというのは、相当なストレスでしょう。自分がやった行為なのだから当然と思う一方、同じ年の自分があそこに座ったら耐えられる自信がありません。そういう意味でも立派だと思います。


 一方の日本大学は「あくまで選手がやった行為です。」というような体でいますね。内田監督も似たような感じです。「この有様が安倍政権に似てる」とかいうコメントがあります。森友問題等についてはコメントを差し控えますが、明らかな責任逃れのようにしか見えないのは私だけではないように思われます。


 では、宮川選手の謝罪会見は道徳教育のおかげでしょうか?そんなことはありません。あれは宮川選手自身が自らの経験・モラルに基づいて行ったことです。現段階の、やっているのかどうかもわからないレベルの道徳教育の世代でも、あれだけのスポーツマンシップに則った事実説明・謝罪ができるのです。多分道徳教育がなかったとしても同じことが出来たと私は考えます。

 

 一方道徳を教科化したいという国会議員の平均年齢は54.7歳です。しかしデータ改ざんを平気で黙認するなど、やりたい放題していますよね。


結局のところ、これが現実です。データ改ざんはいけないことなのは大人なら誰もが承知しています。でもやってしまうのです。逆に自分に対する責任感があれば道徳教育の有無に限らず、謝罪をするなど誠意ある行動をするのです。いじめについても同じことが言えます。


・道徳教育でいじめは改善されない。


 「命は大切です」と言ってもいじめは止まりませんし、自殺も止まりません。一人一人の命がそれぞれにとって大切なのは、言われなくてもわかります。自分の命は大切なのですから。「自分はそうだと思うけど、もしかしたらこの人は命が大切だと思ってないんじゃないか」と思っていじめをする人はいません。


 しかし、いじめによって自殺してしまう、というような痛ましい事件が起きますし、そこまでに至らなくてもいじめって存在しますよね。なぜならいじめをする側にとってはその人が精神的に追い込まれることよりも、自分が楽しい方がいいと考えているからです。そしてそれを正当化するものとして「いじめられる方に問題がある」という無責任なことを言うのです。

 

 そんな方々に道徳教育で「いじめはいけないことです」と言ったところで何の意味もありません。それなら「法律で罰せられる」と言った方が、いじめの防止にははるかに効果があります。「いじめをすることは自分にとっても不利益になる」と考えれば、それ以上にいじめをする動機がなくなるため、いじめをする人が少なくなるはずです。


 一方、自殺もそうです。いじめによる自殺は精神的に追い込まれて自分が完全に壊れてしまう危険を感じた際に行う最後の抵抗であると考えます。自分の精神が壊れそうな状態なのに「自殺は良くない」と言ったところで何の効力も発揮しません


 つまり道徳教育は何もないときに建前的にもっともらしいことを掲げておきながら、実際に事態が発生した時には無力なのです。道徳に限らずとも勉強はその人が必要と感じてはじめてやるものだという印象ですが、自己の内面に関わる道徳という部分は尚更その面が強いと思います。ならば学校でやらなくても済むように道徳について考える機会を増やすことが、社会がなすべきなのではないかと私は思います。


・アクティブラーニングは道徳でなくてもできる。


 「今後の道徳教育はアクティブラーニングが取り入れられるのだから、意義がある」と考えている方もいますが、アクティブラーニングを導入するためなら、それは道徳でなくても構いません。むしろ世の中には解決しなければならない課題が多くあります。それについて話し合った方がはるかに効率的です。


 「文章中の○○さんがとった行動について正しいか、あるいは間違っているか」は一人一人が考えればいいのであって、わざわざ他の人もそうでなければならないとする必要はありません。

 

 しかし課題解決は別です。課題の解決には一人の力ではどうすることもできないため、他人の力が必要な局面が多くその際に意見が伝達されていなければ課題の解決は不可能です。だからこそ、課題解決のためには意見を交わすことが欠かせません。

 
 クラスで議論をするというのが目的なら、道徳ではなく「課題解決」とかそうした科目を新設した方がいいと思います。


・おわりに


 わざわざ道徳教育という形で行わずとも、何かが発生した時に自分がどのように感じ、なぜそう感じたのか、今後はどうするべきかを考えるだけでも十分に道徳です。学校で架空の他人の葛藤の話を散々聞かされるよりも、自分の内面に立ち返る機会を社会全体で増やす方が効果があるように思います。

 
 またアクティブラーニングを取り入れるなら、それは現実的な「課題」に対面する形で行うべきであると感じます。
 
 
 書いてる段階だとまだしっかり整理できてないと感じ、残りは他の人の意見に答える形にしたいと思うので、何かありましたらコメントください。


 それでは。