Volunteacher:大学生講師のブログ

教育系ボランティアで教師をしている大学生のブログです。教育に関する話題や、趣味の話題がメインです。

他人を追い込む子供、それを隠す大人

 プルガです。


 またしてもいじめに関して非常に残念な出来事がありましたね。


 神戸市内の中学3年生の女子生徒が自殺をした事件で、いじめがあったとうかがわせるような聞き取り調査のメモ書きがあったにも関わらず、神戸市の教育委員会の首席指導主事の指示によってそれが隠蔽されたという出来事です。しかもその主席指導主事の言い分としては、「メモが明らかになれば、事務処理が面倒になる」というものであり、教育者以前に人としてどうなのかという批判が相次いでいます。


 いじめ問題に対する教育委員会の不祥事は今回に限った話ではありません。他にも大津市中2いじめ事件教育委員会の隠蔽体質が露呈したことで有名ですね。正直見ていて愉快な話ではなく、非常に凄惨ないじめであったにもかかわらず、まったく被害者側が救われていない事件なので、とても腹立たしく思いました。


 以前の記事で、道徳教育でいじめをとめることはできないという私見を述べさせていただきましたが、今回はよりいじめにフォーカスしてお話ししたいと思います。


・「いじめ」というフレーズそのものの問題
 

 先日大学の授業の方で「“いじめ”をテーマに道徳の授業の指導案を書け」というレポート課題を頂きました。できる限り有意義な授業を作りたいので、工夫するつもりですが、現在考えている工夫は、「“いじめ”をテーマにしているのに一回も“いじめ”という単語が出てこない授業にしたい」ということです。


ところで、人を殴ればもちろん犯罪というのは当然ですよね。金銭を脅し取れば恐喝という罪に問われます。ちなみによく「空気読めよ」とか言って無理やり踊らせたり、歌わせたりするのってありますよね。あれも「強要罪」と言って懲役3年の刑罰が下されます。


こうした具体的な行為が併合して行われているのがいじめです。簡単に言えば逮捕される可能性があるのです(と言っても少年法の存在から即座に刑務所に収監されるということはないのですが…。)。にもかかわらず、いじめって平然と行われますよね。私は恐らくいじめというフレーズ自体に責任感を感じさせない要素があるのではないかと思います。

 

 「いじめ」というフレーズについてどのような印象がありますか?これだけだとイメージがしにくいので、いじめの中にある「暴力」、「悪口」などと比較してみます。私個人としては、どうしても「いじめ」という総称よりも、具体的な行為である「暴力」、「悪口」などの方が強く印象に残ります。

 

 いじめ、と一言で言っても種類は様々ですよね。暴力の有無、金銭の有無、悪口の有無、どのような形態であっても「被害者がそうだと感じれば」いじめになります(これは政府機関の調査等で定義されています)。しかし逆に言えば、いじめという単語そのものの類型が広すぎて、具体的行為が見えにくくなっているのではないかと思われます。いじめという言葉では、まず根本的に単語そのものが抽象的すぎる故に、周囲の人間が認識しない、あるいは認識しても大きく問題視しないのです。


 一方、同じく教育現場で問題となっている“体罰”という言葉は具体的な行為を連想しやすく、印象に残りやすいですね。もちろん、暴力、誹謗中傷などは行為そのものを指すので目を引きやすいです。


 いじめではなく具体的な行為を言葉にする方が、事の重大性を認識した判断をしやすいのではないかと思われます。

 

・「いじめ」は必ず起こる。重要なのはその後にどうなるか


 いじめを阻止することはできるでしょうか?思うに、それは犯罪が無くならないのと同じで、いくらいじめが犯罪行為だと説明しても一定数はいじめの加害者になるのだと思います。


 特に日本の教育では、学校のクラスという単位で「みんな仲良く」やらせる活動、例えば運動会や合唱の発表会などが多いため、クラス単位での仲間外れなどをはじめとしたいじめが構造的に起こりやすく、学校で阻止するのには限度があるでしょう。いじめは必ず起こる、これは皆さんで前提として共有しておくべきだと思います。


 それでは学校はいじめが起こったことにして何の責任を負わなくてもいいのかと言えば、それは違います。いじめによって被害生徒が出ているというのは事実ですから、子供の安全を守る立場として、まずは十分な調査をしたうえで保護者に状況を詳細に説明する必要があります。


 また、いじめに加担した生徒に対しては厳しい処罰が必要です。大津のいじめに対して教育委員会が「いじめた側にも人権があるという」姿勢でいたようですが、特に理由なく人権を奪われている生徒がいる中で、それは不公平です。公平を訴える学校機関として、問題行動を起こした生徒に対して処罰が下るのは当然であるという認識を持つべきです。


 これらの段階では、学則では限度があるのでやはり法執行機関として、警察との連携が欠かせないでしょう。学校で警察沙汰になって学校のネームバリューを下げたくないからいじめを隠蔽する、では話になりません。


 学校でなくともどこでもいじめは起こります。大事なのはいじめが起こった場所学校なのだから、「学校を管理する立場」としてどのように処理するかが問題になるのです。被害生徒が自殺した場合に、遺族にいじめの隠蔽をするのは教育者として以前に人として論外です。


   学校も子供の安全を管理するという義務を果たすことが出来なかったのですから、きちんと被害者に対して謝罪と状況説明に加え、今後はどう対処するかの提案など誠意を見せなければなりません。


おわりに


 いじめという言葉はフワッ、としているのでなかなかイメージしにくいですが、言葉の語感以上に深刻な状況に追い込まれているケースが多いです。いじめの被害にあっている生徒、さらにはその保護者に対してケアをしなければ生徒に一生の傷を負わせることにもつながります。そうなれば学校でいじめが起こった事実以上に学校のネームバリューが下がるでしょう。

 

 自分の責任は隠蔽するのに、子供に対して「悪いことをしたら謝りなさい」などもっともらしいことを言ってるのは、まったくもって納得いきません。子供も日ごろ教師から偉そうに言われているものですから「お前が言うな」という気持ちになって大人に対する不信感を強めるでしょう。


 今回の事件では、教育者としての自覚が足りない面が強く印象に残りましたね。今後改善されることはあるのでしょうか…。

勉強する気にさせるということ。

 プルガです。

 

 よく「子供が勉強する気にさせることが(特に塾の)先生の仕事」という風に考えている方がいます。たしかに子供が勉強する気になることは成績の向上には関係してきますが、子供を勉強する気にさせることは結構大変なことです。

 

今回の記事では、(主に中学生が)勉強に対するやる気を出させるためにどうするかについて、私的な考察をしていきたいと思います。

 

・日常的に勉強させるのは、至難の業

 

 勉強に対するやる気と一言で言っても、その動機によって性質が異なってきます。

 

究極的に言えば、「ほぼ趣味のように形で勝手に勉強する」というモチベーションが理想です。しかし、これを子供に強いるのは至難の業です。現代社会の日本では娯楽があふれています。特にスマホの普及は年々増えつつあり、内閣府の調査では、中学生のスマホの利用率は58.1%になるとしています。

 

その中で、学習目的でスマホ利用を始めたという学生はまずいないでしょう。大半が連絡手段を除けばSNSやアプリゲームを目的にしているはずです。実際私が担当している生徒さんになぜスマホが欲しいか聞いてみたところ、YouTubeを使ってみたい、やりたいゲームがある、などが多かった印象です。それができる機器が身近にあるのにそういった娯楽は一切せずに、特にやりたいわけでもない勉強だけするというのは現実的ではありません。

 

SNSやアプリゲームなどの娯楽に比べたら、勉強はストレスが溜まるものなので、やりたがらないのも当たり前の感情です。それに対してみだりに「勉強しなさい!」とけしかければ反発されるに決まっていますし、ますます勉強が嫌いになることでしょう。

 

 では、勉強させることは不可能なのでしょうか?恐らく私はそうではないと考えます。


それには2つの要素、「勉強に対するストレスをできるだけ和らげること」と「勉強にはストレスを貯めてまでやる価値があると思わせること」が必要です。

 

・勉強に対するストレスをできるだけ和らげるために。

 

 勉強に対するストレスを和らげるために大切なことは、「噛み砕いて説明すること」です。教科書にある文章は公の文書なので、当然硬い言葉で記載されています。これをそのまま記憶するのは、「よく噛んでいない物を無理やり飲み込む」ようなものです。当然拒否反応を起こし、すぐに忘れるという形で吐き出されることでしょう。そこで、可能な限り目線を生徒に合わせなければなりません。中学生に馴染みのあるたとえ話が持ち出せれば最高です。自分の日常とリンクするので強く印象に残ります。あまりいい例えではないかもしれませんが、一例を挙げます。

 

例えば私は、「英語の文は必ず主語と動詞がある」という話を「牛丼」に結び付けて説明しています。主語はご飯で、動詞は牛肉です。目的語や補語は、「ネギ玉牛丼」を頼んだ時のネギやたまごなど、その他修飾語は玉ねぎとか紅ショウガとかです。

 

牛丼を注文して紅ショウガが無くてもそこまで困ることはありません。玉ねぎが入ってないとしても紅ショウガよりは怒るかもしれませんが、まだ店員に文句を言う決定打にはならないと思います。ところが、牛丼を注文したのに牛肉やご飯が入ってなかったら絶対に文句を言いますよね。なぜならこれらは「牛丼」というものを構成するのになくてはならないからです。

 

あくまで一例ですが、中学生にこの話をすると比較的ウケがいいです。牛丼に関して馴染みがあるからというのが最大の理由だと思います。

 

このような形でできるだけ中学生の馴染みのあるものに例えることが知識を記憶するストレスを減らすきっかけになりますし、場合によっては自分でそうした姿勢を持つことすらもあり得ます。そのためには堅苦しい教科書の表現をいかに面白く噛み砕けるかがポイントになります。


・勉強には価値があると思わせるために。

 

 大人の方はなぜ学生時代の終わりまでに勉強をすることが大事かを様々な形で認識・理解しています方が多いです。その中でも多くの方は特に受験がその機会だったと考えられます。受験でいい結果が出せないのは致命的です。そうならないためにも子供に対して「勉強しなさい」と言います。

 

しかし、中学生はそうした大人の意図を把握することは稀です。なぜなら中学生にとって受験は未来の出来事だからです。中学受験をした場合は少し話が変わりますが、勉強のやる気の出ない中学生は “積極的に成績で競争をした経験”、もっと言えばそれで満足のいく結果を残したこといない人が多いのですし、勿論勉強することに価値を見いだせていません。

 

一方、中学校の成績の上位の方は勉強のやる気を競争に見出していることがあります。一部の方で、「勉強は一種のゲームだ」と考えているという話を聞いたこともあります。このように言えるのはなぜでしょうか?そのためにはまずゲームがなぜ面白いかを説明する必要があります。

 

ゲームがなぜ面白いと感じるかは、実にシンプルな理由です。ゲームはやれば必ず成果になります。たくさんプレイをして、敵を倒せば、その分レベルが上がる、クリアできる、そうした単純なシステムでできています。最初はうまくいかなかったけど、やり続けたら必ず報われる、しかも手軽でストレスを感じない。これがゲームの魅力なのです。

 

勿論勉強はゲームよりも手軽ではありませんが、勉強をゲームのように喩えている人は、勉強をして報われた経験がある人です。勉強をすることにやれば上位に食い込めること、すなわち「報われる」という価値を持っています。

 

そのためには競争の機会を多く設け、短期間の成果を目標にすることで手軽さを持たせること。そして結果に対し良かったところはしっかり褒めて、報われる感覚を持たせることが大切です。

 

人間は「やれば報われる」ことに価値を見出すのは当然です。「やっても報われない」ことは無駄だとわかっているからです。勉強に価値を持たせるには、「報われた感覚」が欠かせないと言えます。


・おわりに

 

なかなか勉強ってやる気にならないものですよね。しかしやらなければならない物であるのもまた事実。どうあがいても避けられないなら、工夫が必要です。

 

今回紹介したのは、性質は異なりますが「楽しい」と思ってもらうことで共通しています。娯楽があふれているからこそ、こうした工夫がなければ勉強のやる気は起こりません。逆に「勉強しなさい」と言わなくても、楽しいと思えば勉強はできます。

 

 私自身、生徒が勉強を「楽しい」と思ってもらえるようにもっと頑張らなければと感じます。

 

 それでは。

道徳教育って本当に必要なのか。

 プルガです。


 道徳が2020年に教科になるという話をご存知でしょうか?時折メディアなどで取り上げられますが、大々的に取り上げているわけではないので、もしかしたらご存知ないという方もいるかもしれません。


 この「道徳」という教科、大人世代の間でなぜか一定数の割合の人が絶対視してきました。「子供が非行に走るのは道徳教育が足りないからだ」、「道徳教育をすれば非行は減るんだ」という考えの方もいると思います。


 この度教科化されるという話も、「いじめとそれに伴う自殺」が原因だとしています。つまるところ、「いじめや自殺が起きるのは道徳教育が足りないからだ」ということです。


 道徳教育が本当に必要かどうかの話の前に一つのニュースに注目しましょう。


・宮川選手の謝罪は道徳教育の成果か


 日本大学の宮川選手の謝罪動画がアップされましたね。どうやらネット上では賛否が少し分かれているようですが、私自身はあの対応は同じ大学生の立場として立派なように思います。彼自身が行ったプレイについては、悪質以外の何物でもないですが、事実も自己の範囲で比較的具体的に説明していることに加え、自分のプレイについての責任は持っているように見えますし、何よりも実名・顔出しの社会的なリスクがある中でそれでもやるというのは勇気・誠意があるように感じます。
 

 謝罪会見の動画をちゃんと見るのは初めてでしたが、結構大変なものですね。カメラフラッシュを断続的に焚かれながら、自分の内面を終始振り返させられるというのは、相当なストレスでしょう。自分がやった行為なのだから当然と思う一方、同じ年の自分があそこに座ったら耐えられる自信がありません。そういう意味でも立派だと思います。


 一方の日本大学は「あくまで選手がやった行為です。」というような体でいますね。内田監督も似たような感じです。「この有様が安倍政権に似てる」とかいうコメントがあります。森友問題等についてはコメントを差し控えますが、明らかな責任逃れのようにしか見えないのは私だけではないように思われます。


 では、宮川選手の謝罪会見は道徳教育のおかげでしょうか?そんなことはありません。あれは宮川選手自身が自らの経験・モラルに基づいて行ったことです。現段階の、やっているのかどうかもわからないレベルの道徳教育の世代でも、あれだけのスポーツマンシップに則った事実説明・謝罪ができるのです。多分道徳教育がなかったとしても同じことが出来たと私は考えます。

 

 一方道徳を教科化したいという国会議員の平均年齢は54.7歳です。しかしデータ改ざんを平気で黙認するなど、やりたい放題していますよね。


結局のところ、これが現実です。データ改ざんはいけないことなのは大人なら誰もが承知しています。でもやってしまうのです。逆に自分に対する責任感があれば道徳教育の有無に限らず、謝罪をするなど誠意ある行動をするのです。いじめについても同じことが言えます。


・道徳教育でいじめは改善されない。


 「命は大切です」と言ってもいじめは止まりませんし、自殺も止まりません。一人一人の命がそれぞれにとって大切なのは、言われなくてもわかります。自分の命は大切なのですから。「自分はそうだと思うけど、もしかしたらこの人は命が大切だと思ってないんじゃないか」と思っていじめをする人はいません。


 しかし、いじめによって自殺してしまう、というような痛ましい事件が起きますし、そこまでに至らなくてもいじめって存在しますよね。なぜならいじめをする側にとってはその人が精神的に追い込まれることよりも、自分が楽しい方がいいと考えているからです。そしてそれを正当化するものとして「いじめられる方に問題がある」という無責任なことを言うのです。

 

 そんな方々に道徳教育で「いじめはいけないことです」と言ったところで何の意味もありません。それなら「法律で罰せられる」と言った方が、いじめの防止にははるかに効果があります。「いじめをすることは自分にとっても不利益になる」と考えれば、それ以上にいじめをする動機がなくなるため、いじめをする人が少なくなるはずです。


 一方、自殺もそうです。いじめによる自殺は精神的に追い込まれて自分が完全に壊れてしまう危険を感じた際に行う最後の抵抗であると考えます。自分の精神が壊れそうな状態なのに「自殺は良くない」と言ったところで何の効力も発揮しません


 つまり道徳教育は何もないときに建前的にもっともらしいことを掲げておきながら、実際に事態が発生した時には無力なのです。道徳に限らずとも勉強はその人が必要と感じてはじめてやるものだという印象ですが、自己の内面に関わる道徳という部分は尚更その面が強いと思います。ならば学校でやらなくても済むように道徳について考える機会を増やすことが、社会がなすべきなのではないかと私は思います。


・アクティブラーニングは道徳でなくてもできる。


 「今後の道徳教育はアクティブラーニングが取り入れられるのだから、意義がある」と考えている方もいますが、アクティブラーニングを導入するためなら、それは道徳でなくても構いません。むしろ世の中には解決しなければならない課題が多くあります。それについて話し合った方がはるかに効率的です。


 「文章中の○○さんがとった行動について正しいか、あるいは間違っているか」は一人一人が考えればいいのであって、わざわざ他の人もそうでなければならないとする必要はありません。

 

 しかし課題解決は別です。課題の解決には一人の力ではどうすることもできないため、他人の力が必要な局面が多くその際に意見が伝達されていなければ課題の解決は不可能です。だからこそ、課題解決のためには意見を交わすことが欠かせません。

 
 クラスで議論をするというのが目的なら、道徳ではなく「課題解決」とかそうした科目を新設した方がいいと思います。


・おわりに


 わざわざ道徳教育という形で行わずとも、何かが発生した時に自分がどのように感じ、なぜそう感じたのか、今後はどうするべきかを考えるだけでも十分に道徳です。学校で架空の他人の葛藤の話を散々聞かされるよりも、自分の内面に立ち返る機会を社会全体で増やす方が効果があるように思います。

 
 またアクティブラーニングを取り入れるなら、それは現実的な「課題」に対面する形で行うべきであると感じます。
 
 
 書いてる段階だとまだしっかり整理できてないと感じ、残りは他の人の意見に答える形にしたいと思うので、何かありましたらコメントください。


 それでは。

家庭教師をやめてボランティアになったわけ(その2)

 プルガです。

 

 今回は家庭教師をやめてから、ボランティアに携わっている現在までを書いていきたいと思います。


・ボランティアが見つかった理由。

 

 前の記事では家庭教師をやめたところまでいったのですが、ここで一つ懸念がありました。

 

「生徒に対して補習をするタイプのボランティアって本当に地元にあるのか」

 

 という点です。教育系のボランティアと言ったら、外国人に日本語を教えるタイプやそれこそ本当に海外に行って勉強を教えるタイプのイメージが強かったので、塾がやってそうなタイプのボランティアってあるのかなという点は気になっていましたね。

 

 ネットより地元の公共施設の窓口の方が何か有益な情報を得られるのではないかと思った私は、さっそく窓口へ行ってみることに。この時、多少場所が遠くなる覚悟はしていました。すると、なんと自分の住んでいる場所の近くで無料塾のボランティアをしている団体があるという情報を入手したのです。

 

 翌日早速連絡をしてみると、次に授業をやる日程に見学に来てほしいと言われたので、行ってみることに。形としては、一つの教室を使って少人数の生徒を相手に先生がローテーションしていく形です。一回45分で4限まであり、その間に教える学年が変わることもあります。

 

 到着した段階で代表の方から注意事項の説明と面接が行われました。指導経験として家庭教師をしたことがあると言った際には、「家庭教師をやめて、なぜボランティアを選んだのか」はやはり聞かれましたね。その時になんと答えたかは覚えてないですが、あまりいいことは言えなかったと思います。

 

 この日は完全に見学するつもりだったのですが、少し全体的に見学をした後「今日時間ありますか?」と聞かれ、「あります。」と答えた時、代表の方から言われました。

 

「では、実際に生徒に勉強を教えてみませんか?」と。

 

 度肝を抜かれました。塾のアルバイトは面接してから実際に生徒に指導するまで少し期間があります。「いくら教師の数が足りていないボランティアでも初回は見学だけだろうな」と思っていたのですが、面接が終わって即生徒に勉強を教える機会が与えられたのです。本当に驚きました。

 

 中学生と小学生の生徒を相手にする塾でしたが、初回は小学生2人を相手に教えることに。結構苦手な部分が多いのかなと思っていましたが、そんなことは全然なく、むしろかなり授業内容を理解している様子でした。

 

 とはいえ、土日に机に向かって勉強するというのは特に小学生にとっては面倒なことです。私も現役の小学生だった時はそうでした。また、私の地元はそれほど中学受験の競争が激しかったわけでもないので、尚更そうした習慣がありません。休み時間に教室中を走り回ってはしゃいでいる様子からも、相当なストレスを感じているようです。できるだけ最後まで集中できるよう、面白くするための工夫を以前よりも充実させなければと思いました。

 

・ボランティアと家庭教師の違い

 

 現在は中学生の生徒をメインに教えていますが、現在所属しているボランティアは家庭教師と違うなと思う点がいくつかあります。

 

 まず特に違う点は、代表の方も生徒の指導に参加するという点です。これは個人的には助かります。とても連携がとりやすく、何かトラブルがあった際にすぐに対処できるからです。また、最後のミーティングで教師の一人一人が意見を出すのですが、意見の採り入れに積極的なので、こちらも意見や相談を積極的に出しやすいです。人柄もいいですしね。

 

 次に異なる点は、生徒との距離感がかなり近いという点です。授業中はしっかりしているのは勿論ですが、休み時間ではどの先生方もあまり「教師」感を出さないんですよね。年齢層はバラバラですが、授業中は「コーチ」、休み時間は「親しみやすい大人の先輩」と言った感じでしょうか。なので結構生徒が懐いてきます。私も積極的に生徒さんとコミュニケーションを取ります。「教師」感がないからか、生徒さんからいろいろな話を聞けるのが楽しいです。

 

 また、生徒さんの授業を理解する姿勢も、個人差がありますが全体的にはしっかり備わっていると思います。例えば英語で文法を教えるときに「ここの部分は覚えておいてね。」と伝えると、翌週確認した際に英語が苦手な生徒さんもしっかり覚えてきます。多少忘れてしまっている部分があったとしても、すぐにフォローが利くくらいにはしっかり理解しています。これは詳しい話は聞いていませんが「無料」という部分が強いのではと思います。

 

 皆さんの中でも、「親に言われたから仕方なく塾に行ってる」という人がいると思います。ただ、親の目線からすれば月に10000円はかかる塾にお金を払っているんだから、ちゃんと塾で勉強しなさい!という気持ちがあるのは当然です。しかし生徒さんからしてみれば、親に言われたから塾に行くだと全然やる気が出ませんし、授業内容が理解できません。家庭教師時代の授業前や後の生徒さんと親とのやり取りを見るに、その生徒さんは多分このパターンだったと思います。

 

 一方、現在所属しているボランティアは無料ですので、多少は「勉強しなさい!」ということがあったとしても、経済負担がないはずなので、お金を払うよりも生徒さんの自由度は高くなります。友達、先生、自主勉強などモチベーションは様々だと思いますが、このような理由から自分の意思で来ている生徒さんが多いのだと思います。


・おわりに

 

 あくまで私が所属していたの話で団体の話ですし、団体や生徒によって個人差があると思うので一概には言えないと思いますが、ボランティアは成績を上げるというより「勉強に対するモチベーションを高める」ことに主眼を置いており、教師一人一人が方法を工夫するので、ボランティアの方が考えさせられることも多いと思います。

 

 しかし、生徒のやる気が高いため、私の授業をしっかり理解できていますし、「楽しい、面白い」と言ってくれるのはとてもうれしいです。そう言ったこともあり、今のボランティアの方が家庭教師よりも楽しいというのが私の個人的な雑感です。

 

 ということで、現在ボランティアをしている経緯のお話でした。正直書いていて「褒められた話でもなんでもないな」と自分で思ったのですが、教育系に携わりたいと考えている人の参考になれば、幸いです。

 

それでは。

家庭教師をやめてボランティアになったわけ(その1)


プルガです。

今回の記事は自己紹介記事のパート2のような形ですが、元々家庭教師だったのに、なんでボランティアになったかの話をしたいと思います。

 

大学生で教育に携わる機会と言えば、やはり塾講師や家庭教師といった「アルバイト」として、お金をもらって働くものとして携わっている学生が多い気がします。実際クラスの友達が何人かは塾講師のアルバイトをしていますし、塾や予備校は何社もありますから、大学生でアルバイト先としている方は多いでしょう。

 

つまり、子供の教育という仕事はお金が発生するほど価値がある仕事と言えます。そんな中、私はお金をもらって働く家庭教師をやめ、お金をもらわないで働くボランティアとして働いています。

 

大学生はサークルや勉強にかかる費用をはじめ、旅行や留学、資格や免許などお金をかけようと思えばいくらでもかかってしまうため、「お金欲しい」と思っている人も多いでしょうし、どんな形のボランティアでも「面白くない」と思っている人もいると思います。

 

でも、ボランティアで講師をするのは、実はアルバイトよりもいいところがあるんです。

 

・家庭教師をやめたわけ。

 

現在3年生ですが、私は2年の頃に家庭教師のアルバイトをしていました。もともとお金を稼ぐということはあまり考えてなく、大学で教職課程を受講していたので、「教育実習に備え、生徒に勉強を教える時間をつくりたい」、という考えでした。とはいえ、大学生の間に自腹で合宿免許を取りたいと考えていたので、がっつり稼ぐとまでは行かずともそれなりに稼ぎたいとは思っていたので、最初はアルバイトがしたいと考えていました。

 

そんな中、私は家庭教師を選択しました。個別や集団授業など、校舎経営をしている塾だと、授業時間が決まっていてシフトの融通が利きにくい、またマニュアルがすでにあるため、自分の好きなスタイルで教えることが難しそうだと考えたためです。学部科目だけだと上限まで科目をとっても比較的空きコマができますが、教職課程はそれなりに科目があるので、「全休?なにそれ。午前だけ?なにそれ。」みたいなスケジュールでした。そう言った事情も家庭教師を選択する理由にありました。

 

某社の家庭教師のサイトに登録し、自分の生活リズムに合った生徒さんの案件が来たので、さっそく研修に向かい、規約にサインしました。

 

中学生の英語が苦手な生徒さんでしたので、6月半ばの初回は語彙を確認することにしてみましたが、重要単語があまり覚えられておらず、本当に英語が苦手なんだなと実感しました。文法もあまり覚えられていないようなので、これまでの復習をテスト対策と並行しながら続けていくことに。

 

一応最初の授業自体はその生徒さんから「面白くて、わかりやすい」という意見をいただくなど、比較的スムーズだったのですが、なかなか宿題をやってこれないという問題点を抱えていました。運動部だったので部活が忙しかったのだと思います。

 

このあたりならまだよかったのですが、2か月が過ぎたあたりから段々とトラブルが発生し始めます。

 

まず、ドタキャンをしはじめるようになりました。これが結構しんどいんですよね。こちらは教える計画、準備など入念に行っているのに、いざ行こうとした瞬間生徒さんの親から「今日の授業はなしで」という連絡。当日の朝とかならまだしも、2時間前、1時間前(ほぼ出発ギリギリ)のタイミング、ひどいときは現場に到着して玄関先で保護者から言われたこともあります。

 

一応振り替えというシステムがあったので、別の曜日に移すのですが、段々と欠席が多くなり、どう考えてもまかなえない状態になってきました。こちらもできる限り配慮はしたのですが、もともとあまり予定が作れないから選んだ家庭教師。できる対処には限界がありました。

 

また、授業ができたとしてもなかなか集中できなくなっていました。これも結構しんどいんです。最初の方の授業は聞いていたのに「自分の教え方が良くないのか」とかかなり考えてしまうんですよね。「面白くて、わかりやすい」という意見をいただいた時と教えるスタイルは変わらないのに何がいけなかったんだろうとかずっと考えっぱなしです。生徒さんのやる気を引き出すためにできる限りわかりやすく説明しようという工夫をしたのですが、どうにも結果が出ません。

 

ドタキャンが6回目になったタイミングで流石に本部に連絡。本部から「厳重に注意します。」というメッセージが来た後、しばらくして再び本部からなぜか困惑した様子で連絡が来ました。曰く、その生徒さんの親が契約を途中で解除すると言ったみたいで、翌年3月までだったはずの契約が10月いっぱいで終わりという形になったようでした。

 

電話越しに思わず唖然としました。というより最初何を言われたか理解ができませんでした。本部からフォローをもらいますが、正直気休め程度でしたね。特に理由として「対して成績が上がらなかったため」と言われたときは悲しかったです。かくして最初の案件は、一瞬で終わりを告げられ、次の案件を探すことにしました。


次の案件も見つかり、研修を済ませあとは生徒さん側から連絡を頂くという状況でした。しかし一向に連絡が来ず、妙だと感じた私は本部に連絡しました。すると本部も状況を把握していなかったみたいで、生徒さんに連絡。すると「某社と契約を結ぶ話はなかったことに」という連絡が来たと本部から連絡が届きました。

 

連絡が届いておらず、実際に接する機会がないため、私が具体的にどのような人柄かを知る術はありません。が、急に契約がドタキャンになった連絡を聞いて再び唖然。

 

これが決定打となり「もう家庭教師はダメだな」と思い、教育に関する活動は別の形でやっていきたいと考えるようになりました。

 

おわりに

結構文量が多くなってしまったので、今回はここまでにしたいと思います。

 

現在家庭教師をされている方に一つアドバイスですが、「当日キャンセルになった時に空けた時間分の給料がきちんと保障されるのか」は確認した方が良いと思います。サバゲーの話になってしまいますが、フィールドを貸し切った時の当日キャンセルの料金は全額です。そういう面からも当日キャンセルされたとき、その分のお金を請求するのは当然の権利だと言えます。

 

私が所属していたところでは、そういった補償は一切なく、せっかく準備した時間等は完全に無駄になっていました。講師側のドタキャンには厳しいのに生徒側のドタキャンはお咎めなしというのはあまりに不公平です。まあ、本来的にはドタキャン自体が常識的にダメですし、そう何回もされるなんてことはないはずなんですがね…。

 

ドタキャンの分の給料が保障されているかは、単にお金の問題だけではありません。本部がどれだけ所属する講師のことを考えているか、生徒の保護者が相手の講師のことをどれだけ考えているかにも影響しているというわけです。

 

次回はボランティアに参加してから現在に至る話をしたいと思います。

自己紹介など

 

 

1. 自己紹介

 

①名前

 

pulgaatomica1219(ID)

 

名前長すぎるので、ブログ内では”プルガ”とします。


② 職業

 

大学生です(法学部)。

 

副業として教育のボランティアに講師として携わっています。英語メインで国語や社会科を担当しています(大学の受験科目が3教科だったため)

 

数学と理科は苦手なので、だれか教えてください…

 


③ 住まい

 

神奈川県です。両親と兄がいます。

 

 

④趣味

 

サバイバルゲーム(サークル)、映画鑑賞、ロックを聴くことです。

 

映画は洋画が中心で、ドラマ系(特に戦争もの)、スパイアクション、スリラーを見てます。

 

ロックバンドはONE OK ROCKやMY FIRST STORYなどいろいろ聴いてますが、今はTHE SIXTH LIEというグループを特に聴いてます。

 

 

⑤最近の悩み

 

そろそろ就活が迫っているのでその情報収集です。

 

あと、中学生に「大学で何勉強してるの?」と聞かれ、「法律」と答えると少し引かれることでしょうか…。

 

 

⑥ 性格

 

思ったことがそのまま出るタイプです。

 

 

 

2.このブログで書こうとしていること

 

当ブログでは、自分の活動や趣味(主に映画)の話などを考えています。特にボランティアでの活動を書いていきたいと思います。

 

 


3.ブログに関する意気込み

 

 家庭教師からボランティア講師になったので、そうしたきっかけなど、できるだけ共感や納得を得てもらえるような記事を書けるよう、がんばりたいと思います。